2011/07/01
その他
土産
朝からひとり、草刈りをしていた梅雨の晴れ間の日。
その晩、褒美の生ビールを飲みに、幼馴染がやっている居酒屋『IMari・いまり』へは数人で繰り出した。このときの仲間の一人にスラリときれいなお嬢さんがいて、これが好物だと知ったので、塩茹での枝豆を注文し、乾杯した。
ところで、この豆の正体が『未成熟の大豆』だということを、お嬢さんは知っていたろうか、私は最近まで知らなかったことだが。
・・・枝豆といえば昭和42年7月初旬の夕暮れ時・・・。この季節、いつまでも明るいのをよいことに当時4歳の私は三輪車でひとり、ドライブを楽しんでいた。明るいといっても、おそらく時刻は6時を過ぎていて、近所の子供たちも、夕食の時間を告げる母親の声を聞き、もう家に帰っていた。
その当時のわが家周辺は、まだまだ農地が多く、桑の木が畑の際に並んでいた。菓子職人だった私の父親だが、仕事の後は、やはり冷えたビールが褒美だったようで、扇風機とキリンの大瓶を横に、ランニング、ステテコ姿で笑った写真が今も残っている。
さて、この夏の夕方、和男少年にとっての大発見が訪れた。三輪車目線から桑の木の間を覗くと、畑には緑色の葉をつけた作物が植えられていた。そのとき、私の目に飛び込んできたものがあった。生まれて初めて木に生った枝豆を見た私は、父親への土産を手に、嬉々として帰宅した。畑から失敬したことは叱られたそうだが、『はい、おかあちゃん、これ茹でて。』とニコリと半ズボンのポケットからとり出したのは、わずか三つか四つの枝豆だった。
・・・この話は、今年新盆を迎える母親が涙をこらえるほどに笑って語った、この季節の十八番(オハコ)である。